東本社
中本社・西本社
建御名方命の御子興波岐命は新開(ニイサクノ)神・大県神・八県宿禰(ヤノアガタスクネ)神とも称され、田口に本拠を構えて千曲川等の河川の氾濫原や平地を開拓した集団の長であり、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られました。八県宿禰神は貞観十年(868)正五位下を授けられています。
建御名方命と事代主命は国土経営に大功をたてられ、興波岐命の御父神、御伯父神であらせられるので、ともに斎祀して新海三社神社と称するに至りました。佐久郡の人々は興波岐命の神恩に感謝し、祭典も盛大に行われ、佐久郡の社家は佐久郡三庄三十六郷の総社である当神社の祭典に出仕しました。
御神幸は往時、岩村田・春日・志賀・上平尾・余地等に出掛け、古くは東御市本海野への御神幸がありました。神主が御霊代(ミタマシロ)を奉じて騎馬にて御神幸(巡行)し、御神幸先には御仮屋を建て神事を行いました。
源頼朝は草津方面に遊猟の節、当神社に参詣、源氏の祖神誉田別命(八幡さま)を祀るよう沙汰されると共に社殿を修理再建し、社領を寄進しました。足利氏も当神社のことを沙汰し、武田信玄は永禄八年(1565)上州箕輪城攻略の際、祈願文を奉り、天正年間には修築を行わせています。徳川氏も造営の内助費を下付し、竜岡藩主も祈願所とし、鉾、手水舎等の寄進や修復の寄付などをしています。
御魂代石
武田信玄の祈願文